blockade




 目が覚めた。
 深く温かな沼の底から釣り上げられた魚のようだ。夢から現へと意識がうつろう心地良く曖昧な時間すらなく、急激に訪れた意識の覚醒に戸惑う。体にはまだ眠りが濃く纏い付いていて、褥の上に背を起こす、それだけのことに酷く労力が要った。
 月のない夜だ。けれど闇が深いというわけでもない。室内の様子は見て取れる。
 真っ先に頭に浮かぶのは、なぜ目が覚めたのかという疑問だ。薄闇の中に片目と意識とを凝らし周囲の気配を探るが、異変が起きた様子もない。ただ、強い腐臭がふいに鼻先を掠めて、政宗は落ちかかる長い前髪の下で顔を蹙めた。
 家人の手によって一日たりとも怠ることなく清められている部屋に、腐臭の元などある筈もない。床下か、天井裏か、それにしては匂いが近い。
 嫌に鼓動が速い。
 ぎこちなく右手を上げ、躊躇う指先を顔に近づけようとして止める。少しばかり汗ばんでいるのが気に掛かり、神経質に上掛けで拭うと、改めて指の腹で閉じた右の瞼を擦った。
 目元を辿り、二度、三度と同じ動きを繰り返し、そこに何の異常もないことを執拗なまでに確認して、政宗は詰めていた息をようやく吐く。
 深く吸い込んだ空気の中に、確かに捉えたはずの臭いはもうどこにもない。
 何か夢でも見ていただろうか。それに引きずられでもしたか。
 靄でもかかったように霞む思考を持て余して目を閉じれば、瞼の裏で、両の眼球が酷く熱いような気がした。
 否。
 馬鹿な事をとすぐさま打ち消して政宗はもう一度右の瞼に触れる。閉じたその下に眼球の膨らみはない。虚ろな穴を抱えるばかりのそこに熱さなど感じるわけがない。けれど熱い。
 自覚はないが寝惚けてでもいるのかもしれない。それとも、これはまだ夢の中か。
「政宗殿?」
 考えを巡らせていたところに思いがけず名を呼ばれ、政宗は過剰なほどの反応で左脇を振り向いた。見れば、気配で目を覚ましたものか、隣で眠っていたはずの幸村が政宗を見上げていて、大きな目を眠そうにこすると片肘を付き、緩慢な動作でわずかに背を浮かせた。
「……Sorry, 起こしたか」
 隣に幸村がいる事など、たった今まで念頭から抜けていた。そのことに驚きながら見下ろす先で、幸村が首を傾げる。
「構わぬ。が、どうされた?」
 何が、と返そうとして、政宗は幸村の視線を追い、自分の片手が無意識のうちに顔の右半分を覆っていることに気付いた。不自然さは否めないながらも何気なさを装って掌を離し、口元に笑みを浮かべてみせる。
「No, 何でもねえ。目が覚めちまっただけだ」
 言いながら枕元に手を伸ばし、探し当てた眼帯を右目に当てて革紐を固く結ぶ。
 そうしたことで僅かばかり安堵し、眠り直そうと上掛けを引き上げながら背を倒したところに、
「おい、……ッ!?」
 伸びてきた腕に肩を突かれ強引に褥へと押しつけられた。
 入れ違いに体を起こし、のし掛かる体勢になった幸村の手が、結んだばかりの眼帯の紐を掴む。ぎくりとして半ば反射的に出た手で阻もうとしたが遅く、そのまま力任せに外された。
「真田!」
 覆うもののなくなった目元を腕で庇う。眼帯の下など、既に幸村の前には幾度となく晒した。触れさせもした。今更隠すことはおかしく不自然だが、けれど今は嫌だった。
「政宗殿の言葉はあてにならぬ」
「何……?」
 眼前に翳した腕が幸村の手に捻り上げられる。弾いて押し戻し、また捕らわれる攻防の末に、体勢で不利のある政宗の腕は纏めて頭の上へと押さえつけられ、乱れた前髪を幸村の指がかき上げて右の瞼を露わにされた。
 奥歯をぎりと噛んで、政宗は幸村を睨み上げる。
「真田、離せ」
 低く叱責の響きで言うが、幸村は動じない。
「政宗殿は嘘をつく」
 胸に乗り上げられぐいと顔が近づき、視線で右の瞼を検分する。怒りで顔を歪める政宗と対照的に、幸村の表情は平静だ。肩からこぼれた長い後ろ髪が、政宗の乱れた夜着の、首のあたりに落ちかかって緩く皮膚を刺した。
「離せっつってんだろうが……!」
 腐臭がしたのだ。確かに一度。
 顔を背けようとしたが、髪を上げた手に額を抑えられていてそれもままならない。
 腐臭がするならば右の眼窩しかない。そこしかない。言葉という毒に冒されたそこが腐りはじめ、やがては全身に至り腐り落ちて死ぬのではないかと、そんな疑念にひととき囚われていた。
 指先で幾度も確かめた。異常はない。けれどそこが酷く忌まわしく思え、人目に触れさせるのが怖い。眠り直して次に目が覚めた時には、そんな不安など夢に紛れて拭われてしまうに違いないのだけれど、今は見られたくはない。
 睨む先で幸村の顔が更に近づき、こともあろうに唇が瞼に触れた。嫌悪感に政宗の全身が総毛立つ。身を竦ませて逃げをうとうとするがかなわない。
 きつく噛んだ奥歯が焦れたような痛みを訴える。
 濡れた感触が皮膚を這うに至って、政宗の中で、何かが限界を超えた。
「幸村ッ!!」
 叫んだ途端、腕を戒めている幸村の手がわずかに緩んだのを見逃さずに渾身の力で振り解いた。のし掛かる体を突き放し、よろめいた隙をついて反転させ、夜着の胸倉を掴んで背中から敷物へと力任せに叩き付けた。衝撃で息が詰まったのか、一瞬の後に、幸村がごほりと苦しげな咳を吐き出した。
 政宗は馬乗りになった体勢で、荒い息を吐いて幸村を見下ろす。
 幾度か立て続けに咳き込んだ後に政宗を見上げた幸村が、表情を険しくした。
「なぜ、何も言ってはくれぬのだ」
「……あァ?」
 低く言われて、政宗は眉根を寄せる。
「手荒な真似をしたことはお詫びする。けれどそれほどまでに嫌がるのだ、何か理由があってのことでござろう。それなのに、なぜ何も言ってはくれぬのか!」
 強い語調で言う幸村は、どこか苛立たしげな様子を見せている。きつい色を宿した目だけが、夜闇の中で光を放ってでもいるようだ。
 事と次第では殴りつけようと考えていたものが、先に語気を荒げられたことで鼻白み、政宗の頭にのぼっていた血がすうと引いた。
「政宗殿が何を不安に感じているのか聞きたい」
 真っ直ぐに向けられる言葉に苛立つ。
「アンタに言ったところでどうにもならねえ」
「政宗殿を抱きしめるくらいのことはできる。それとも某では頼りないか!?」
 政宗は口の端を歪めて笑う。
「くだらねえな。アンタに縋るほど落ちぶれちゃいねえよ」
 苦痛を堪える時のように、幸村の顔が歪んだ。
 頼れと言う、寄りかかれというそれはある種甘い誘惑だ。身を任せれば楽だろう。けれど頷けるほど素直には出来ていない。
 夢に引きずられて不安定になっているのだなどと、口に出せるわけもないし、出したところでどうなるものでもない。原因は自分の中にあり、誰にも、どうすることもできはしない。
 溜息を混じらせた呼気を吐くと胸倉を掴んでいた手を離し、政宗はその手で幸村の両目を覆った。驚いたのか、忙しなく瞬きする睫毛と、眼球の動きが掌に直に伝わる。
「政宗殿?」
 問いかけを黙殺して目を閉じれば、静かな夜のなかで互いの呼吸音だけが耳についた。
 そうしてみればやはり閉じた瞼の下が熱い。無くしたはずの右の。
「……右の眼が熱い。それだけだ」
 言って、政宗は素早く体を離すと横になり、これ以上話すことはないとの拒絶の意志を込めて、幸村へ背を向けると上掛けを引き上げた。
 背後には迷う気配があり、ややあって、幸村の手が背に触れた。衣擦れを伴って幸村が距離を詰め、背中にことりと額が預けられる。政宗は何も言わず、幸村も何を言うこともなく、ただ伸ばされた腕が背後から政宗を抱きしめた。
 室内を支配するは薄闇、夜明けはまだ遠い。




藤井さんとの賭けの末、相撃ち違う相討ちで双方サナダテを書いたわけです。
私は真田大好きな伊達、藤井さんは煮詰まり。
常日頃伊達の眼帯は煮詰まり発生ポイントだと叫んでいたら、藤井さんがかいてくれた!
とりあえず声を揃えて続き書いてといいたい。この煮詰まりは良い煮詰まりだ!
史実とバサラをあまり混ぜるのはどうかと思いますが、それにつけてもあの目はコンプレックスの元だっただろうと思うのです。何かにつけて考えちゃえばいいわけです。というわけで続きを!続きを激しく所望するよ藤井さんんんぁあああ!!(落ち着いて)
きっと藤井さんなら、真田が悩みながら救ってくれると思うんだぁぁぁ。

知らない人もいないでしょうが藤井さんのサイト→〔廃〕